吉井源太

「土佐紙業界の恩人」「紙聖」とも称される吉井源太は、文政9年(1826年)吾川郡伊野村の代々続く御用紙(ごようし)漉きの家に生まれ、維新後は先進的な製紙家として活躍しました。
源太は明治時代、仕事に関する詳細な日記をつけており、この日記は、いの町の保護文化財としてご子孫より寄贈され、当館で収蔵(非公開)しています。加茂山のふもとにある生家も文化財として保存・公開されています。

 

吉井源太の功績

製紙用具の改良―「土佐の大桁」を開発し、紙を量産―

安政五年(1858年)、江戸に赴いた際に紙の消費量を詳しく調査した源太は、想像以上の需要の多さに驚くとともに、現在の漉き用具では伸びゆく需要に応じることが出来ないことを痛感。帰郷後ただちにその改良に打ち込み、寝食を忘れて苦心の末、ついに万延元年(1860年)、大半紙六枚取り・小半紙八枚取りの簀桁を完成させました。その大型簀桁は「土佐の大桁」と呼ばれています。これにより品質を損なうことなく従来の2倍、3倍の紙を漉くことができるようになり、画期的な量産が可能となったのです。

 

典具帖紙を改良―品質を高め、輸出に貢献―

源太は、もともと美濃にあった典具帖紙を高知で改良して漉き、より薄くて強い新しい紙として開発。この典具帖紙はいの町神谷を中心に漉かれました。この紙がアメリカの博覧会で受賞し、タイプライター用の複写紙などに使われるようになります。町には仲買や問屋が発達し、典具帖紙やコッピー紙は欧米に輸出され、2大ヒット商品となりました。こうして伊野は「紙のまち」として繁栄を迎えたのです。
土佐電鉄の路面電車が伊野まで開通したのは、源太が亡くなった年ですが、その目的は、典具帖紙など紙を運ぶためでした。源太自身も誘致運動をしています。

 

28種類の紙を開発

吉井源太は明治27年に緑綬褒章を受賞しています。その理由として、紙の開発とともに、全国への技術伝習、外国の博覧会での受賞などが挙げられています。
[吉井源太が開発した紙・28種類]
薄葉大半紙 同上小半紙 同上郵便半切紙 台帖用紙 教科書用紙 絵画漉入詠双紙 記録紙 バトロン紙 桑皮書翰用紙 ヤフマヲ紙 コロホニム漉入水墨紙 絵画漉入ナプキン紙 錦帯粉入掛図用紙 改良薬袋紙 薄葉図写紙 ムクベ書翰用紙 厚手図引紙 吸墨紙 萱製水墨紙 大幅典具帖紙 株券紙 礬水(どうさ)漉入写生紙 防寒紙 絵画漉入短冊紙 絵画漉入額面紙 石綿漉入防火紙 石盤図画用紙 圧写紙

 

三椏や楮の栽培を奨励

現在はお茶畑が多い、仁淀川流域の山間部。数十年前までは三椏がたくさん栽培されていました。「柳野」などの地名にある「柳」は、三椏のことです。その風景をつくったのは、明治期の吉井源太といえるでしょう。国の政策を進める形で、熱心に栽培を奨励していたことが、日記からも読み取れます。

 

『日本製紙論』を出版

明治31年、口述筆記で完成させた集大成の著書。その内容は製紙の原料や製紙技術、紙の種類などについて詳しく書かれたもので、紙の博物館に所蔵・展示されています。また、『続・日本製紙論』という草稿もあり、館内で展示しています。

       左:「日本製紙論」復刻版            右:「続・日本製紙論」の草稿

 

製紙技術を全国の産地へ指導 

吉井源太は、製紙技術を惜しみなく全国へ指導しました。その伝習先は3府25県に及びます。要請を受けて伊野から技術者を送ったり、自分自身が講演や指導に赴いたり、あるいは高知へ訪ねて来る人を受け入れて、技術を教えました。台湾からもはるばる学びに来た人がいます。内国勧業博覧会などでの審査員も務めています。

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